かんがえすぎたこと

かんじたり、かんがえたりしたこと。

switch

子供たちには地獄が必要だが、大人たちには地獄は必要ない。

 

大人たちは、肉体的な崩壊を待たずとも、"死んでも天国も地獄も無く、現時点で観測しうる世界線ではなにも起こらない"という事実だけで眼前に地獄を描き出すからである。

 

浮き世、憂き世と人は言うが、観測しなければただの藁束である。

ゆめ

夢を見た。ロシア旅行に友達と行く夢。入れ違いになって結局1人で行くんだけれど。

滞在先で近隣住民のひとがどんどん訪ねてきてたいへんだった。(ホテルなのに)

ドア越しに変顔をしてきたり、ルームサービスを奢ってくれたり野菜を持ってきてくれたりといろんな人が来た。夢うらないによると、ホテルに泊まるゆめは人生の節目とか一時的な人間関係の暗示で、見知らぬ人とホテルで知り合うゆめは仕事でその人たちと出会う、ということらしい…

むかしから自分は予知夢を見ることが折々あった気がする。その夢を見る時まで行ったことがないはずの場所を夢に見たり、会ったこともないひとのことを夢に見たりした。全て気のせいで片付けることも簡単だが、わたしが余計に信心深いだけなのだろう。

かんがえていたこと

かんがえていた。
機会が多くあり、『人間自体は進化していない』という前提のもと原始的なヒトとして、に立ち返る思考法を最近は採用している。
技術がいくら進歩しても、人間はお肉を狩って石を打ち砕いていた頃と何も変わっていないのではないかということ。
n番煎じだが、政治家がごちゃごちゃやっていることも、とどのつまりは内輪もめなんではないかと思うのだ。人間はポリス的動物だが、人口が増えおおきくなったポリスにはうまく対応できなくて(原始的なままであるから)、ちいさなポリスを再構成してその中でごちゃごちゃやっているのではないか、という観点だ。そのポリスが行う行為の影響するリーチが違うだけだ。
学生の頃生徒会に所属していたが、次の期間の役員は現在の役員どうしが話し合って、次誰が何の役職につくか決めていた。(役員をやりたがる人がすくなかった)あれも内輪もめだったのだ。
かなしいね。
今気づいた。ポリスなのだ。人は群れないと何も出来ない。
愛憎併存。
そのことはわたしにはとても嬉しくもあり、とてもかなしい。

ちかごろ

帰りたい。家でもそう思う。いつも帰りたいと言っている。
いつから長く働くことが偉いというイデオロギーが出来上がったのだろう。活動したくない。何もしたくない。
頭は暇なので、毎日言語化という行為を頭の中で行って生きている。概念そのものがもやもやとしていたり、例えで済ませてしまうような案件に言語を当てはめるという行為だ。今日も……もう忘れてしまった。物忘れが著しい。
最近具合が悪い。毎日お腹をわるくしているし、朝食が気持ち悪くて入らない。食欲もあまりない。サイゼの1番安いミートドリアくらいの量が多すぎて食べられない程だ。しかも今日は死にたさの総量がいつにも増して多い。肉体を捨てたい。何者にもなりたくないしたまにしか活動したくない。今は休みたい。
いつ死んでもいいと思っていると、何をするにもハードルが下がる。芥川を読んだ時も感じたことだが、死はあまりにもfashionate me every time.
しかし、わたしは死んだら楽になれるとは思っていない。死んだらもっとつらいことがあるに決まっている。無、というつらいこと。何も生まれない。何も生み出さない。観測ができない。利益もない。それでもわたしは終わらせたい。

ゲスの極み乙女「crying March」

かんがえすぎ〜

ルソーを読んでから、ルソーから離れることができずにいる。媒体がなんであれ、過激な発言でインパクトを与える手法にまんまとはまってしまう。それがルソーでなくても。

Twitterで意見や指摘のツイートがバズると、その一連のツイートの流れのうちの、過激な(印象的な)発言だけがバズるという現象が起こる。これはTwitterだけに言えることではないが…

Twittersnsではないと思う。日本社会ではその面影はわずかだが、ただのひとりごとデータの集積だ。というか他人の発言や考えなんて正直なところ、参考になるもの、好きなもの以外はどうでもいい。いまは興味も持てない。

(興味も持てない状態はきっと病気のせいなので大丈夫だ。多分)

最近だめだ、好きなものも好きなことも何も楽しくない。こういう周囲へのアンテナがしおれている時はただ絵を描いていくに限る。感受性を高めなければならないな、と思う。

長い文章を書く大変さ

しこう

わたしも健康にそれなりにやっていきたいのに考え方が邪魔をする、疾風怒濤の青年期の単なる悩みではない。 生活に慣れてきて、ああここに居続けたいな、と思っているのにも関わらず、である。 幸せだと思えても、楽しいことがあっても、美味しいものを食べても、ちょっとしたことー例えば他人が怒られてたとかーがあると、不意に死にたくなるし、明日死のうと毎日思っている。まさに今日、他人が怒られてるさまを見て死にたくなったばかりである。

小学生ころから自分が対象でなくても、人が怒られたり注意されたりしているさまを見ると気分が悪くなっていたように思う。恐らくだが、自分で自分のことが信じられず『次は私だ』などと無意識に思っているのかもしれない。1度そのせいでひどく泣いてしまい、先生やクラスメイトに迷惑をかけたことがあった。わたしもとても悲しい。今も光景がフラッシュバックする。

ここ2日睡眠が捗る。寝ている時が1番楽しいのではないか、とか思っている。その間は寝る必要がないからだ。

思索的逡巡の時間が失われるのでおそらくこれからも電車通勤がいいだろう。

1日が濃い

青空を眺めると、ああもうこんな時間なんだと思う。学んでいると1日が本当に長く感じられ、疲労も余計に感じる。やらなければならないこととやりたくないこととやりたいことがまじって、結局何もやりたくなくなる。

今きっと社畜期だ。自分が焦燥に駆られてることがよくわかる。訳もなく居残ったり、趣味でないことに自分から進んで取り組んだり。

ちがう、こんなつもりじゃなかった。もっとのんびりやっていくつもりなのだ。なぜだ。なぜ焦る。焦るつもりなんかないのだ。焦るとよく、馬が草原を駆けていくイメージが頭をよぎる。止まれ駿馬。そのまま。